愛人はオートバイ

オートバイを愛人に見立てて妄想しまくる変態ブログ!もと『48歳リターンライダーがハーレーのオーナーを目指す!』からタイトル変更しました。

父が死んでも涙が出なかった。

 昨日、喪中の葉書の印刷をネットで注文した。

 

 実は、5月に父親が死んだ。

 昨年秋、ちょうど今頃に脳出血で倒れ、入院してリハビリをしていた。ところが、入院中に大腸ガンが見つかり、80過ぎの脳梗塞を患ってる患者に手術は不可能といわれた。

 脳出血も手術できない箇所だし、大腸の腫瘍からも出血が続き、手の施しようがありません。輸血してもいずれ追いつかなくなります。持っても半年でしょう。と医者。

 

 

  倒れる前日まで父は元気だった。俺も、父が倒れる3日ほど前に電話で話したが、変わった様子はなかった。

 自業自得と言われればそれまでだが、大の病院嫌いだった父。元気そうに見えても、体の中は加齢と癌に侵されていたいたようだ。

 ああ、お父さん、死ぬんだな。母親も姉も俺も、簡単に覚悟はできた。

 父は昔っから、年取ったらボンっと倒れてすぐに死んでやるから、お前ら安心しろ。といっていた。

  死に方なんて自分じゃ決められるもんじゃないじゃん!と俺も姉も言いつつも、曽祖母が同じように脳梗塞で倒れ、ほどなく亡くなった経験から、うちの家系はなんとなくそうなるんじゃないかなと思っていた。

で、そうなった。

 

俺は想像を絶するほど、ど田舎の出身だ。

俺も姉も高校卒業後に都内の大学に進学し、そのまま就職。こんな何も無い田舎に戻ってくるな。と言う父の言葉通りに、姉も俺も実家には戻らなかった。

 

  毎年、夏に帰省していたけれど、ここ数年は、父の年齢を考えると、あと何回顔を見れるかななんて思うこともあった。

 

 

5年ほど前、父は俺に頼ってきた。

詳しくは書けないが、いろんな事情があって、父は菩提寺の墓に入るのを拒否した。

新しく墓を建てる金も無いし、なんかいい方法ないかな。

じゃあ、こんなんあるよと、都内の格安な共同供養墓を探してやると、大喜びして、そこに入れてくれ!と二つ返事だった。

 「お前の言う通りにするよ。俺はなんもわからんから、でもお前に任せられるから助かるよ。死んだら俺も東京人だ」

 できの悪い息子の俺が、おやじから頼られたのは後にも先にもこれが最初で最後だった。

 

 共同供養墓に入ることが決まると、面倒なことが嫌いな父は、死んだら、家族以外の人間には知らせるな、葬式もするな、戒名も坊主の経もいらん、と言っていた。

 実際は金がなくて、葬儀費用で家族に負担をかけたくなかったんだと思う。

 

 そんなこんなで、家族の間で、親父の死ぬ準備はできていた。

 

 死ぬことについて、なかなか親が元気なうちは話せないと思う。

 しかし、人は必ずいつか死ぬ。特にそれが自分の親であれば、順番から自分より先に死ぬのが当たり前だと考えた方がいい。

 うちの家族には、たまたまお墓の件があり、そういう共通認識が育っていた。かつ、死は、生の中に内包されているものだという意識もあったから、実際に親父が死んだ時も、当たり前に受け入れることができた。

 

 

幸か不幸か、脳梗塞の麻痺のせいで、親父は入院中、苦しい、痛いなどの苦痛を訴えることもなかった。

カタチだけのリハビリを受けながら、介護施設が見つかるまで、入院させてくれた病院の配慮には感謝しかない。

うまいこと四月に、介護施設が空き、そこに移った。

しかし、一ヶ月たった、5月のある日の早朝、静かに息を引き取っていた。

苦しむことがなかったのが、なによりの救いだと、母親は言っていた。

 

葬式は父親の言う通りにした。

直葬と言って、お通夜も告別式も行わず、葬儀屋の遺体安置所で一晩置いてもらい、その後すぐに、火葬場に運ぶことになった。

参列したのは、母親と姉夫婦、俺の嫁と子供二人だけだった。

最後のお別れをしてください。と葬儀屋が言う。母親が声かけ、姉が声をかけて、ウチの子ども達が、さようならと挨拶したりする。俺は親父の頰のあたりにおデコをつけてみた。80歳の父の肌。それは冷たくて、気持ちが良かった。

火葬場で俺が点火スイッチを押すと、子供達が堰を切ったように泣き始めた。

良かったんじゃんか、孫がワンワン泣いてるよ!田舎の酒飲みの、なんの取り柄もない爺さんのために、小さい子供達が泣いてるよ。

俺は、二人の子どもの肩をしっかり抱いてやった。

 

火葬場の待合室で、缶コーヒーを飲みながら、姉が言った。

 

最後にね、お父さんを見舞った時に、お前は、俺から何を得た?って言われたのよ。

 

それで?

 

それでね、アタシは、お父さんから、本を読むこと、音楽を聴くこと、今のアタシの基礎をくれたのは、お父さんだよって答えたの。

そしたら、お父さん、なんて言ったと思う? 

そりゃ、言い過ぎだって!

 

姉は物書きの仕事をしている。

 

親父は、酒と文学と音楽を愛する男だった。かと言って、お洒落なおじさんでは無い。

ランニングシャツ一枚で、ステテコ履いて、でかい湯飲みに燗酒を入れて、どでかい音でクラシック音楽を聴き、爪をかじりながら世界文学全集を読む人だった。

感情的で、面白いことは大笑い。悲しいことはドラマでも映画でも、子供の目を憚らず泣き、短気で突然怒り出し、かと思えば、何もなかったように遊んでくれる、多分どこにでもいる普通の、若干めんどくさい親父だった。

 

父は終戦近くに生まれたので、当たり前のように、戦争の不幸を背負わされた。幼少期に両親と死に別れ、母方の祖父母に引き取られて育った父。

両親の愛情を受けることがなかったうえに、祖父母からは厄介者のように扱われたらしい。

大学への進学を希望していたが、許されず、実家で商売を継がされた。しかし、商才はなく、金にも恵まれなかったが、自分が大学に行けなかったこともあり、姉と俺を東京の大学に進学させることができたのが、何よりの誇りのようだった。

 

あんたは、お父さんに何か言われた?

と姉。

 

あー、ぜんぜん。

見舞いに行くとさ、いつも、もう家に帰りたいとか、酒呑みてえとか、そんなんばっかだよ。

 

東京から3度ほど見舞いに来たが、多分、とりとめのない普段通りの会話しかしていないと思う。

俺としては、逆に、こんな、なんでも無い会話で良かったと思っている。

父から何を得たなんて言われても、ほいっと思いつくものなんかないのだ。

おまけに、テレビドラマみたいに、死に際に何か教訓めいたことを言うことほど、反則行為もないだろう。死に際だけに、たいしたことじやなくても、何か特別な価値をつけなきゃいけなくなるじゃないか。

 

火葬が終わると、子供たちはケロッとして、必死になって骨を拾い、骨箱に入った親父を、わーい!おじいちゃんが箱になった!と言って、俺が持つ!アタシが持つと奪い合いになるほどだった。

俺はまたまた思った。よかったじやんか、箱に入ってメチャ好かれてるよ。

 

実家に何日か泊まって、色々と手続きをしたけど、大したことはなかった。

親父は本当になにも持っておらず、預貯金もほとんど無かった。

俺は、形見にネクタイピンとカフスボタンを貰って帰ってきた。

家の家紋が入ったカフスボタンをころころと手の中で転がす。

自営業のオヤジは、冠婚葬祭以外でワイシャツを着ることなどなかったはずだから、

カフスなんかほとんどはめることもなく生きてきたはずだ。

愛用していたものではなく、たまたま残っていた。それだけだ。

 

 東京に戻り、久しぶりに自宅のベッドで子供達と寝る。

子供達は、俺の腕まくらで寝るのが大好きだという。男の子はもう5年生だから、こんな風に寝ることができるのも、あと一年もないだろう。そろそろ自分の部屋が欲しいと言い出す頃だ。

7歳の下の子も女の子だから、きっと3年生ぐらいには、俺となんか口もきかなくなるだろう。

 

 俺も、子どもの頃に、こうして父に抱きついて寝ていた。

多分、小学校の6年ぐらいまでそうしていた。

 

親父は子煩悩で、俺と姉をとても可愛がってくれた。

もちろん、思春期のころには、どこの家庭でもあるように、俺も姉も両親にひどく反抗した時期もあった。

母から聞いて、最近知ったことだが、父は、姉と俺を東京に出してから、毎晩、晩酌のたびにポロポロ涙を流して泣いていたらしい。

 

 俺は親父が与えてくれた愛情を、今、自分の子供たちに、同じように注いでる。

人は経験からしか学ぶことができないから、俺は親父みたいに子供を可愛がるのが当たり前だと思っているし、それしかできないのだ。そして、それは俺に、とてつもない幸福感を与えてくれる。

 

 40年前、俺と姉が子供だった頃、親父も俺たちを抱きながら、こんな幸福感に包まれていたのだろうか。

 俺の知り合いで、父親と疎遠だったから、自分が父として、子供に対してどう振る舞ったらわからないという奴がいる。

 俺の父はどうだろう。両親の愛情を受けることなく、祖父母に、疎まれながら育った父だが、俺たちに注いでくれた愛情の源泉はなんだったのだろうと、不思議に思う。

 

 

 火葬が終わった時に、母親が言ったことを思い出す。

 「お父さん、小さいころは親に死に別れて、悲しい思いしたかもしれないけど、最後は幸せだったと思うよ。お父さんにとっては、自分の血を分けた人間って、あんた達しかいなかったしね。

 可愛がってた子供たちや孫たちに見送られて、苦しまずに死んで、最後は全部、思った通りになったんだから。」

 

 父は生き方を選ぶことごできなかったけど、自分の思い通りの死を迎えることができた。

俺たち家族はそう思ってる。

 母も姉も俺も、父の死に対して、涙を流すことはなかったのは、そのためだろう。