それでもチカラ無き声をあげる~父と戦争~
三年前に死んだ僕の父の話です。
父は昭和14年生(1939年)生まれで、この年はまさに第二次世界大戦の始った年です。
父は戦争孤児でした。千葉県の軍事工場で設計の仕事をしていた父親を戦争で亡くし、母親の実家である秋田に引き上げてきましたが、母親は若かったので再婚しました。しかし、嫁ぎ先の都合で父親は再婚先に連れていくことは許されず、残された父は親戚中をたらいまわしにされ、最後は祖父母に引き取られて育ったそうです。
ちなみに、母親は嫁ぎ先で終戦前に病死したそうです。
実は、僕がこのことを知ったのは、小学校の高学年になってからでした。
病院に行こうと健康保険証(当時の健康保険証は一枚の紙に家族全員の名前が書いてあるものでした)を見たら、父の続き柄に養子、僕の続き柄に養子の長男とあったからです。
父に聞くと、『そう。俺、養子なんだよ。親がいないから。』と答えるだけで、詳しいことは何も言いわず、自室に引っ込んでいったのを覚えています。
父の出生については、曾祖母(父の養母)から教えてもらいました。
まさか、自分の父親が、こんな悲しい経験をしているとは思いもしませんでした。
父親はどちらかというと能天気な明るい性格でした。家族の中ではいつもバカな話しをしていましたし、人を笑わせるのが大好きで、よく近所の友人を自宅に招いては、深夜まで酒を飲んでるひとでした。
そんな父でしたから、父が戦争による不幸を背負って生きてきたなどと微塵も思ったことはありませんでした。
僕が子供のころは、終戦記念日などには、戦争中の白黒映像などがテレビで流れていましたが、父親は、「そんな戦争の映像なんか見たくもねえ!」と言って、見ることもしませんでした。
父は死ぬまで、戦争について、自分が背負った不幸な境遇について自ら語ることはありませんでした。
亡くなった今となっては確かめようもありませんが、きっと、悲しい思い出は封印していたのだと思います。
昭和64年(1989年)に昭和天皇が崩御され、日本中が喪に服し、昭和という激動の時代が終わると、各テレビ局は昭和の歴史を振り返る映像ばかり流していました。どのチャンネルを回しても、戦争とその後の復興と発展の映像ばかり、、、
いつもなら戦争に関わる映像などは見向きもしないはずの父は、それを睨みつけるように見ていました。戦後、日本がいくら復興しようとも、いくら発展し経済大国になろうとも、父が失った、両親がいて、愛情を受けて育つという普通のことは取り戻すことはできないのだなと、僕は思いました。
戦争さえなければ、、、
戦時下、そして終戦直後に生き、そう思われた方はぼくの父以外にもたくさんいることでしょう。
第二次世界大戦が終わって、77年が経ちました。
この77年の間にもたくさんの戦争がありました。
そして、大国同士が戦争をしなくても武力による抑止力によって均衡を保つ世界。
そして、今年の2月ロシアがウクライナに侵攻して長期化している。
中国と台湾周辺も不穏な空気が漂っており、
そして、日本も政治家たちが、なんだか危うい方向に舵を切り始めている。
この77年の間にどうして世界は武器を捨て、戦争をしない方向に向かえなかったのか?
生前の忌野清志郎さんが、こんなことを言っているのを見つけました。
シンガーやロックスターがずっと昔から反戦を歌ってきた。でも戦争が無くなったためしはない。歌になんか何の力も無い。本気で歌った人達はさぞかしガックリきたことだろう。君には聴こえるかい? それでも誰かが歌う力無き歌が
— 忌野清志郎 瀕死の語録問屋 (@kiyoshirogoroku) 2022年2月24日
(ぼくの自転車のうしろに乗りなよ/第91回/TV Bros/2005年1月8日号)
僕は戦後の高度成長期に生まれました。
戦争には直接かかわったことはありませんが、僕が育った世代では、たくさんの音楽家や歌手が反戦を歌い、たくさんの文学が戦争の悲しみを伝え、たくさんの映画が戦争の愚かさを伝えてきました。
そして、一般の市民だって、戦争なんか望んでいない。おそらく、世界中のほとんどの人が争いなど望んでいないと思います。
それなのに、一部の権力者や政治家によって、戦争が引き起こされるのです。
そこでは、人が人でないような行動をしてしまうほど狂わされる。たくさんの命が失われる。愛する人が失われる。父のように、両親から愛されることさえ奪われる、、、
それは、戦争をしているどちらの国にも起きているのです。
世界情勢のことも考えずに絵空事を言うなと言われようとも、
たとえ僕の声が小さく力なきものだとしても、
僕は戦争が世界からなくなることを願わずにはいられません。
令和4年8月15日